5年生と病気
『5年生』と聞くと小学5年生が頭に浮かぶ人がほとんどかと思う。
私は12年在籍可能の通信制の大学生。
その中の『5年生』だ。
つまり12年生もある。
高校受験では私立高校の専願入学だった為、なんなく受験をクリアした。
しかし、大学受験は進路指導の先生方が心配するほど失敗した。
中学生、私は定期テストで10位以内に常にいられるように狂ったようにテスト勉強をしていた。
最高順位は3位で、どうしても勝てなかったのは現役で東大に受かったヤツと、かなり頭の良い奴だった。
私の受けた高校は1~3年の5教科の最終評定を全部足した数値での受験だった。
全部で75点満点。私は72点だった。
私立高校は専願・併願ができた。
1番高い評定は特進コースの併願で62点くらいだったと思う。
私の受けた普通科の専願は48点だった。
面接の時、なぜ特進コースにしなかったのか?と面接をしてくれた先生方にすごく不思議に思われ聞かれたのを覚えている。
私は市内の高校で行きたい高校が無く、部活動が盛んな市外の高校を受験した。
高校に入ってから聞いた話では、特進コースでは部活をしない人が殆どで、そもそも部活をしている時間が無いらしい。
部活動に専念したい私は普通科でよかった。
そして中学で勉強を頑張り過ぎたので、高校では真ん中くらいに居ればいいやくらいの気持ちで勉強していた。
私の高校は大学付属なので、その付属大学を受験する為にセンター試験とはまた別のテストがあった。
つまり付属内でのペーパーテストの点数で、付属内推薦のようなものだ。
私は付属大学を受験するつもりが端から無かったので、そのテストをいつも適当に受けていた。
その結果、付属高校全体の8割に入ればほとんど希望の学部に入れたものの、適当に受けすぎていた私は9割のところにいた。
元々体育系の大学に進むつもりでいた私は、某体育大学のAO入試を受けた。
元々合格人数が少なすぎた為、当然落ちた。
次にまた某体育大学のスポーツ推薦を受けた。
1.5倍の倍率の中、私は落ちた。
そもそもスポーツの実績が全国レベルでは無かったからだ。
さあ、もう行ける大学がない。
それなら勉強してセンター試験を受ければいいのでは?と思うと誰でも思う。
しかし私はただ単に勉強したく無かったのだ。
大学は絶対に推薦で行くと決めていた。
なので泣く泣く余っている他私立大学の指定校推薦を担任に探してもらった。
自分の学びたいと思う学部はそこしか残っていなかった。
しかし、立ちはだかったのは親のプライドだった。
父親は体育大学出身で教師をしている。
なので私も必然的に体育大学を受けなければいけないという考えが抜けなかった。(教師になりたい訳ではない)
AO入試、推薦入試、落ちる度に怒られた。
そして、大学を探し探ししている内に、担任に『お前は何がやりたいんだ?』と聞かれた時、答えられなかった。
私には『自分の意思でやりたい事』が無かったのだ。気づいた時には職員室で泣いていた。
それでも一応希望に沿った指定校推薦の大学を進めてくれた。
結果、私は指定校推薦を受けることが出来なかった。
『名の知れない誰も知らないような大学になんか行かせない。』
そう怒られ、私はどうする事も出来なくなった。
担任と相談し、残っていたのは付属推薦の追加募集だけだった。
追加募集は、定員に達しなかった学部を受験する事ができた。
全日制課程の学部はほとんどが8割条件だった。
適当にやり過ごしていた仇が当たった。
9割で入れる学部は、夜間課程の法学部だった。
もうそこしか受けることが出来なかったのだ。
どうしようも無くなった両親もそこを受けろと言い、受験した。
大きな付属大学の高校なので、名は知れている。
きっと承諾してくれたのはそこだけだろう。
結果は合格だった。
とりあえず、年内に合格できた為、自分含め両親も先生方も安堵しだと思う。
受験に落ちる度に怒られた。
今でも鮮明に言われたことを覚えている。
『大学に行きたいなら勉強して受験しろ』
『名の知れない大学になんか行かせない』
『お前ばかりに金使ってられない』
『勉強したくないなら就職しろ』
『浪人したっていい、世の中にはそういう人も沢山いる』
抜粋したが、矛盾だらけでめちゃくちゃである。
同じ年に弟も高校受験だった為、お金がかかった。
受験した大学はほぼ東京だった為、1回受けるのに受験料は30000円。交通費、宿泊代、含めると軽く10万は飛んでいく。
私はどうしても地元から、実家の手の届かないところに行きたかった。
だから東京に行った。
しかし、根からくそ真面目な私は入学早々、大学というものの理想とギャップに打ち砕かられた。
大学という自由な環境はとにかく合わなかった。
講義を真面目に受けない、出席を頼まれる、なのに自分よりいい成績をもらっている友達。
あまりにもつらかった。
真面目に授業に出ている自分が馬鹿らしくなった。
話は変わるが、私は父のツテで某スイミングスクールでバイトを始めた。
大学になれて5月くらいからバイトを始めようかと思っていたのに、話を進められすぎて入学前には採用されバイトをしていた。
夜間課程だった為、朝〜昼間の時間がバイトだった。
バイトをしてから授業、のような日々だった。
ある日突然、布団から起き上がれなくなった。
毎日涙が止まらなかった。
毎日ほとんど眠ることができなかった。
ついに限界に達した私は、心療内科を受診した。
軽度のうつ病だった。
それからは反動の様に症状は悪化していった。
毎日死にたかった。
駅のホームで何回飛び込もうか考えたか分からない。
そもそも予兆はあった。
その時の私は診断をつけてもらう事しか救いが無かった。
段々大学に行けなくなった。
広い教室のざわつきが酷く気になってつらかった。
東京に出て半年、意を決して伝えた。
『大学を辞めたい。』
もちろん反対され、さらには怒られた。
後期の授業料を払ったのに、と。
結局親のプライドと金だった。
その後も大学に何度か行ったが、ついには行けなくなってしまった。
部屋からも出ることが出来なかった。
駅から家までワンメーターでタクシーを使っていた。
そして私は大学1年生の11月、東京を離れた。
後期を捨てた。
親もやむを得なかったのだろう。
平日は大学に行き、週末だけ帰ってくればいいと言われたが、片道5時間の高速バスは正直しんどすぎた。
もちろんうつ病はどんどん悪化していった。
そして私は大学に通信過程がある事を知り、籍を通信制に移した。通信制の法学部所属になった。
しかし、興味のない勉強、続くはずがない。
そもそも大学が大嫌いだ。在籍もしたくなかった。
早々に辞めたかったが、大人の事情で在籍するしか無かった。
そして今私は5年生になった。もちろん大人の事情である。
もちろん、就職すればいいだろう。と思う人が殆どだと思う。
地元に帰ってきてからは繋ぎ繋ぎでバイトをしていた。
ずっと家にいる事がいたたまれなかった。
しかし、私のうつ病は進行し続けた。
地元の病院の精神科にもう5年通っている。
大学2年生の時には入院してしまった。
大学生4年間潰しても、病気は治らなかった。
その治らなかった原因はまた別の機会に長々と話しをすると思う。
私はあと何年大学生でいなければいけないのだろうか。
ブログ名の意味
彼が20歳の誕生日を境に煙草を吸うようになった。
もらい煙草をして私も吸うようになった。
彼とは3年ほど遠距離をしている。
実家にいる時は吸わなかったけど、彼の家ではもらいながら吸っていた。
ここ1ヶ月でストレスのはけ口が無くなり、ついに実家でも吸うようになった。
ああ、煙草で落ち着くようになるのかと思うと、ヘビースモーカーのように依存していく。
今となっては毎日8~10本も吸うようになった。
つまりヤニカスである。
銘柄はパーラメントのメンソール。
黒い箱のやつ。
ちなみに彼とは違う銘柄である。
その理由がブログのタイトルである。
私にはかなり長い付き合いの幼なじみがいる。
幼稚園から一緒で、小学校を卒業してから別々の中、高になったので連絡を取るようになったのは成人式にあってからなのでほぼつい最近である。
22歳の誕生日の少し前に地元に帰ってくるので会わないかと連絡があり、幼なじみから煙草をもらいながら2人でふけっていた。
その幼なじみが吸っている銘柄がパーラメントだった。
単純にメンソールが強くて好みなのもある。
実際彼の吸っていた煙草では少し物足りなさを感じていた。
初恋はレモンの味、というのは定番のフレーズだ。
本来なら『初恋は煙草の味』の方がしっくり来るのだと思う。
でも、私の初恋は煙草を吸うずっとずっと前だった。
つまり、初恋は〜という表現は煙草を吸ってから恋に落ちたという表現なのではと思った。
なので、初恋だった幼なじみの吸う煙草の味を吸うという形にしてみた。
うまく伝えられない、、
そして私はパーラメントのヘビーユーザーとなった。
電子煙草も使うが、やはり紙の方がうまい。
落ち込むような時間を作ってしまうのならば、煙草にふけっていた方が何倍も気が楽だ。
毎日煙草の本数は増えるばかりである。
灰皿がないので、いつも実家のゴミ箱から大きめの空き缶を探す日々である。
彼を思い、どこかで浮気しながら、どうしようも無い気持ちを消化する毎日だ。